Story of WDB Group

WDBグループの歩み

第2章 -1996年~2000年- 
研究職派遣で飛躍

東京進出、初戦は惨敗

その後も順調に売上を伸ばし、関西圏での基盤を築いた。そして1996年12月、国内最大の市場である東京に支店を開設する。しかし、支店とはいっても、そこに在籍する社員は1人。競合ひしめく東京で、無名に等しいワークデーターバンクは苦戦を強いられた。そんな東京支店に、新卒で入社したばかりの佐々浦一志(現 WDB事業承継パートナーズ株式会社 取締役)が配属されるが、売上ゼロが続く状況は変わらない。
事務職では競争に勝てないとSE職派遣に狙いを定めて挽回を図ったが、これも不発に終わった。
東京進出初戦は、何をやっても結果の出ない惨敗。撤退もささやかれだした。

新たな市場の開拓

佐々浦の入社から5カ月後、中野がひとつの提案をする。
「研究職派遣をやってみないか」
前年の規制緩和によって、それまで認められていなかった研究職への人材派遣が解禁されていたのだ。これでだめなら東京支店は閉鎖という条件で、佐々浦は最後のチャンスに臨む。
ターゲットは研究学園都市、つくば。佐々浦は毎朝、自宅のある中野から東京駅に出ると、そこから高速バスでつくばに向かった。研究施設が集中するのは、バスを降りてさらに1時間ほど歩いたところだ。そこで一件一件、相手の話に耳を傾け、研究職派遣の利点を伝える。そして一日が終わると、同じルートを逆にたどって自宅へ戻る。そうして3カ月が過ぎたころ、立て続けに5件の依頼が入った。その後は次々と受注が叶い、ワークデーターバンクは研究職派遣市場で確固たる地位を築いていくことになる。

若手の結束と活躍

研究職派遣の売上は事務職派遣に比べてまだ小さかったが、不況の影響で事務職派遣の売上は伸び悩んでいた。中野は研究職派遣へのシフトチェンジを決めた。1999年、研究職派遣事業を拡大するべく佐々浦の下に配属されたのが、初任の新規事業開発室で成果を上げられず、そのまま部署の解散を余儀なくされた3人の新人、栖原佳大(現 WDB株式会社 取締役)、谷口晴彦(現 WDBココ株式会社 代表取締役社長)、葛原武典(現 WDB株式会社 支店責任者)だった。
佐々浦は、それまで手薄だった民間企業への営業を3人に任せる。再起を胸に、重い資料を抱えて企業を訪問する日々。誰かが受注を決めれば、自分のことのように喜び合った。そして翌年の春、大手化学メーカーや製薬会社から立て続けに依頼が入る。その後も勢いが止まることはなく、研究職派遣の実績は右肩上がりを続けた。