WDBグループの歩み
第3章 -2001年~2005年-
社名を新たに、受け継がれる創業の精神
ワークデーターバンクからWDBへ
2002年4月、グローバルな成長を視野に入れ、初の海外事務所を上海に開設。その矢先、日本で商号登記にローマ字等を用いることができるようになった。中野は、変化を恐れず、機会を逃さない。改正された法律が施行された2002年11月、社名を「株式会社ワークデーターバンク」から「WDB株式会社」に改めた。
もともと「WORK DATA BANK」の頭文字をとった「WDB」というロゴを使用していたため、社員にとってもお客様にとっても、「WDB」という新しい名前は親しみのあるものだった。
「ワークデーターバンク」であろうと、「WDB」であろうと、企業としての信条と、歩むべき道は変わらない。この年、研究職派遣の売上は事務職派遣と肩を並べるまでに成長した。
「やるしかない」常用型派遣会社 WDBエウレカ設立
順調に成長を続けていた研究職派遣だったが、別のところで問題が起きていた。「派遣のままでは将来が不安」、「本当は正社員になりたかった」という派遣スタッフの不満が、表面化するようになったのだ。実際、「正社員になれる」という理由で、常用型派遣(派遣会社の正社員として派遣先で就業する働き方)の会社にスタッフが引き抜かれるケースも出てきていた。
当然、「WDBも常用型派遣に取り組むべき」という声が上がった。しかし、派遣スタッフを自社の正社員として雇用する常用型派遣は、経済的な負担が大きい。その分経営リスクも高くなる。それでもやるべきか。やるとしたら今なのか。毎晩のように議論が続いたが、中野の答えは決まっていた。目の前の問題をそのままにはできない。大塚も、想いは同じだった。
2004年1月、常用型派遣会社「WDBエウレカ」(現 WDB株式会社エウレカ社)を設立。立上げメンバーは葛原、谷口、栖原。佐々浦とともに研究職派遣拡大の中心となった3人だ。中野は、多くの常用型派遣会社が実務経験者を中途採用する中、新卒を大量採用するという、新たなサービスを考えていた。3人は全国を飛び回り、「新しい会社を一緒に作ろう」と呼びかけた。その結果、メッセージに共感した多くの学生が集まった。
次は、彼らの職場の確保だ。期待を裏切るわけにはいかない。営業に走り回る3人を救ったのは、お客様と築いてきた信頼関係だった。多くのお客様が常用型派遣というサービスを評価し、新卒社員の受入れを表明してくれたのだ。
迷い、失敗しながらたどり着いた「出口戦略」という答え
しかし、常用型派遣にも矛盾があった。派遣先での業務が始まっても、派遣先の正社員と同様のキャリアを積むことはできない。エウレカの社員同士で、顔を合わせることもない。3人は定期的に社員が交流する場を設けたが、形だけのものにしかならなかった。
時間とともに高まるエウレカ社員の不満、それに対してどうすることもできないいら立ち。ついに中野が爆発する。
「君たちはいつまでも派遣のままでいいのか!」
派遣社員として経験を積むことは、無駄ではないが限界もある。皆はどう考えているのか。社員に本気で向き合いたい。そんな想いからの発言だった。
これを機に社内改革の機運が高まり、紆余曲折を経て「WDBエウレカ」は答えを導き出した。5年を目処に派遣就業でスキルを高め、「派遣先での直接雇用」「WDBのグループ内異動」「転職」「派遣継続」から社員が希望するキャリアを選べる「出口戦略」だ。